1991

18期
キャプテン 清水 利祐
バイスキャプテン 藤井 明男/谷 圭一/山田 正美
チーフ 脇 啓子

【18期の歴史】

(1点目)創大第一グランドでの桜美林戦を明日に控えた11月3日、創大祭2日目。

第一グランドで練習中、創立者池田先生から明日の試合にむけて、以下の激励のお言葉を頂く。

『明日頑張って下さい。負けたら笑って朗らかに。勝ったら楽しく朗らかに。勝って兜の緒を締めよだから。負けたことが勝つ因になるのだから。ともかく伸び伸びと頑張りなさい。応援するよ。』

(2点目)チームアイデンティティの確立と、チーム名「BLUE LIONS」の誕生。

小野監督の発案で創部20周年を記念し、チームアイデンティティ確立のため、現役選手、マネージャー、コーチ陣から多角的なアンケートを取り、皆の総意でチーム名「BLUE LIONS」と、部訓「自主・謙虚・忍耐・智力」、ユニフォームのフルモデルチェンジを行う。

この時生まれたユニフォームは、微調整を加えながら、2016年創青会発足時に一新された現在のユニフォームに変わるまで26年間に渡り長く愛されてきた。

【1991年度シーズン】

小野監督は、3年計画(1988年度:一部昇格、1989年度:一部上位確保、1990年度:甲子園BOWL優勝)が終わり退任予定であったが、OB及び現役からの依頼により再度監督を引き受けるが、全面的にコーチ陣へ任せ、一歩退く。

春はこの年に就任した富永コーチ(14期卒主将)により、過去3年間の小野体制でのフルタックル、クロスボディブロック有りのフルスクリメージの長時間練習から、社会人方式の短時間練習、スクリメージでのタックルはパックのみと大きく練習方法が変更。

関西遠征では、3年連続関西学院ファイターズと対戦。主将DT池ノ上選手、QB東村選手を除き全て1本目の関学に完敗。なお、その年関学は甲子園BOWLに優勝。

春のシーズンは練習不足からチーム力が上がらないまま終了する。

悪いことは重なり、夏のシーズンイン前に、RBの谷(4年)と、TE/K/Pの国分(4年)2名が大病を患いチームを離脱し現役シーズンを終える。Cの山本(3年)もオープン戦中膝靱帯を断裂し、復帰はリーグ戦最終戦。キープレーヤーを3名失う。特に谷の離脱は、40yd4.8秒で走るエースRBだっただけに大きかった。

この状況を打破すべく、夏のシーズンインから小野監督が再び自ら指揮を執り、長時間猛練習を復活させる。

夏合宿は学内にて8日間、9~12時練習、12~14時昼食休憩、14~15時ミーティング、15時30分~19時40分練習、20~21時食事をしながらミーティング、21時20分~22時20分ウエイトトレーニングで一日が終了と、チーム力向上の合宿を決行。徐々に、創価の泥臭いフットボールが蘇る。

満を持して臨んだ秋季リーグ戦。1部から降格の桜美林、部員90名を擁する学習院、その他中堅校がひしめくブロックで、初戦,2戦惜敗、3戦目の神奈川は執念で勝利。

しかしオフェンス力不足で混戦を抜けきれず入替戦出場が決定。

入替戦の相手は大型ラインを揃え、エースRBは187cm96kgで、後に日本一アサヒビールシルバースターでオールジャパンTEになる友添選手率いる東京農業大学。激戦の末、7-14で惜敗。長いシーズンが幕を閉じた。

18期は小野監督就任後初の1回生で、若かりし頃の小野監督からアームシバーを顎に放り込まれ、アメリカンを直接教えて頂いた期であった。夏合宿でのほふく前進100ヤードは今も思い出す。

また4年間、関西遠征に行き、芝生の有料スタジアムで、1年時は京都産業大学、2~4年時は関西学院ファイターズと試合をし、3年時は主力として関学に勝利した。

嬉しいことも、辛いことも、全て経験できた、大変恵まれた期であった。

1991年 オープン戦
日付 対戦相手 結果 勝敗
4/7 玉川大学 0-0
4/14 明星大学 27-0
4/21 防衛大学 21-26
5/3 関西学院 0-48
6/2 獨協大学 13-28
6/9 大東文化大学 3-20
1991年 秋季リーグ戦<2部リーグ>
日付 対戦相手 結果 勝敗
9/23 東京学芸大学 0-21
10/5 埼玉大学 10-12
10/20 神奈川大学 7-0
11/4 桜美林大学 0-43
11/16 千葉大学 0−19
11/30 学習院大学 14-21
1991年 入替戦 / 2部-3部
日付 対戦相手 結果 勝敗
12/14 東京農業大学 7-14