1995

22期
キャプテン 宇野 幹夫
バイスキャプテン 小牧 来太/天河 義孝/橋本 要
マネージャー 谷中 由紀子/上大谷 正湖

1991年に3部降格したBlueLionsは小野監督の指揮のもと、3部から2部に昇格した時は

2部で優勝出来るチーム作りを掲げ、週休2日制を導入し部員獲得に力を入れた。

結果20数名入部。1995年の4年生の時には部員60名を超え、コーチ・マネージャーを合わせると80名の陣容になっていたと記憶する。しかし、前年(1994)3部優勝2部昇格を勝ち取ったBlueLionsに待ち構えていたのはリーグ編成。これまでの7チーム4ブロック28校から8チーム2ブロック16校へ2部リーグが絞られる。つまり7校中4位以内に入らなければ

自動的に3部リーグへ降格となる。

2部優勝1部昇格を目指し1995年シーズンが始まった。

この期はにぎやかな期だった。時には体育会を盛り上げるためだけに別途アメフト部が招集され、オープニングイベントを飾る事もあった(劇団要フェニックス)

大学内の頑張っているクラブにアメフト部が選出され、初めてパソコン(Windows95発売)が導入されたのもこの年だった。

1部から降格してきた明治学院大学の初戦に標準を合わせチーム作りが始まった。

【オフェンス オフセットI】

2年からスタメンCとしてOLを引っ張る小牧。ブルドックのような低さとスピードは相手にも脅威。Gの迫地は直向きなしつこいブロックが定評。G出身のレシーバー福島は球際に強く、特にブロックは強烈。TBは2枚。小嶋のリーダーシップでバックス陣は纏め上げる。オープンランも速くキックオフリターンにも貢献。山口出身の森脇は3年時にリーグトップのラン獲得ヤードを記録するも4年時は体調不良が続く。リーグ戦後半で魂の復活を果たす。

FBの栗若は実質2年からのスタートで筋肉の割にはゲインしなかった。翌年残りバックス陣を引っ張る存在へと成長。有名なプロトレーナーになるとは誰も予想していなかった。

FB池ッチの微笑みとアドバイスはチームに活力を与えた。

QB橋本要はK、TE、WRも熟し、クネクネ走るラン、オプション、パスと幅広いプレイは

濃い髭を完全にカバーしていた。『QBは11人目のプレイヤー』『QBは死ぬ覚悟』の指針を胸に小野監督が繰り出すオーダーに近付くオフェンスへ仕上がっていった。

【ディフェンス 4-3カレッジ】

MLB天河は“どこから上がって止めてんねん”獲物を捕らえるチーターのようなスピードは誰も予測不能。異次元のスピードはどこまで通用するか疑問だったが、社会人でも外国人コーチを唸らせ、1部リーグのスター選手も一目置き、遂にライスボールで優勝してしまった。

創大アメフト史上最高のプレイヤーになるとは、1年の『実家逃亡電話なりすまし事件』の時には想像出来なかった。その後の苦労の人生が『ブラボーわが人生』の記者へ開花していった。

LB斎藤のコント能力は目を見張るものがあった。爽やかに人をいじり倒す無邪気さがディフェンスにパワーを与え、キレると誰も止められない。なで肩筋肉LBとして存在感を放っていた。LB深川はギョロ目とは裏腹なあざとさを兼ね備えていたが、陰での努力を継続し堅実なLBとして持ち場を守った。

DE宇野。1.2年の時はプレイ、態度パッとしない部分はあったが3年以降、強さを積み上げた。小野監督は見抜いていた。不器用さの中に溢れるリーダーシップ、責任感、キャプテンとして見事にチームを纏め上げ、スクリメージラインを死守した。

DL山中はインサイドを固め170センチ110キロの割には動けた。キャンディーのように見えたマウスピースは年々相手に脅威を与えていった。

CB高橋も一度は逃亡するが職人のようなカバー能力は年々磨きがかかり、キッカーとしてもその才能を開花させた。

CB山本の相手をかわす早目のローリングは性格を物語っていたが後に料理人として成功を果す。

年間テーマだった“Fundamental Football”を胸に基礎を積み上げたオフェンス・ディフェンスともリーグ戦でどこまで通用するか楽しみなチーム状態で初戦を迎えた。

明治学院大学戦

初戦の緊張からかオフェンスは中々攻めきれない。ショットガンからのQBランで敵陣に進むも得点に結びつかず。ディフェンスはラン・パスとも抑え込んでいたが結果的に2本取られ

オフェンスは1本も取れなかった。オフェンスチームは落込んだ。バイスキャプテンで唱題会を行い2戦目以降の勝利を誓い合った。初戦以降、オフェンスとディフェンスの試合を意識した練習が良い意味で彼らの緊張感を高め、互いに口数が減っていった。

青山学院大学戦

初戦から打って変わってオプション中心にパスも決まり6TD。常に先行し圧勝した。

東京工業大学戦

この試合が2部優勝・残留を大きく左右する試合だった。第2戦から1週間しかない。

小野監督から「東工大は頭の良い大学だから必ずスカウティングされている。これまで見せていないショットガンを中心とした戦術を組むように」と連絡があった。ショットガンQB寺田(2年)を投入し、QB橋本がバックス、レシーバー、QBとプレイ毎にポジションを変えるスタイルが仕上がっていった。当日、取って、取られて緊迫した一進一退が続く。創価オフェンスが繰り出す奇襲攻撃に東工大ディフェンスは明らかにアジャスト出来ていなかった。

ディフェンスも2回のターンオーバーを奪い取る。残り38秒、逆転のTDパスが通る。

チーム一丸となっての勝利だった。

駒澤大学戦

オフェンス・ディフェンス共に機能し圧勝した。この段階で3勝1敗。明学が1敗し創大がトップタイに躍り出て優勝も視野に入ってきた。この頃には約30名オフェンス全員で8畳のバイスキャプテンの一室で試合前に唱題会が開かれていた。近隣からの苦情も良き思い出である。

東洋大学戦

DLの山中が足の負傷で離脱した事が痛かった。相手がTをGにシフトさせた山中対策に真ん中から崩され失点。オフェンスも精彩を欠き悔しい1敗となった。

一橋大学戦

試合3週間前の練習でQB橋本が後十字靱帯断裂。松葉杖で凌ぐも歩くのが精一杯。

試合後半出場した橋本は走れないものの、パス、ドローで敵陣に攻め入った。プレイコールは小野監督に替わりゴール前ドローが見事に決まりTD。ボールを運んだのは怪我から復帰した森脇だった。

3勝3敗でリーグ戦を終え4位。翌年の躍進へ繋がる良い1年でした。

1995年 オープン戦
日付 対戦相手 結果 勝敗
4/2 高千穂商科大学 14-7
4/16 慶應義塾大学 スクリメージ
4/23 山梨学院大学 7-36
5/5 大阪芸術大学 55-0
5/7 大阪経済大学 44-0
5/21 千葉商科大学 17-0
5/28 拓殖大学 29-13
6/11 東京農工大学 27-21
6/17 法政大学 19-41
1995年 秋季リーグ戦<3部リーグ>
日付 対戦相手 結果 勝敗
9/10 明治学院大学 0-14
9/23 青山学院大学 42-20
10/1 東京工業大学 28-21
10/15 駒澤大学 49-15
10/29 東洋大学 14−27
11/18 一橋大学 14-25